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北京オリンピック開会式の楽しみ

2008年5 月23日 (金)  中村義通信員 [埼玉県川口市]

 2008年8月8日午前8時8分に開会が予定されている北京オリンピックまで、あと5カ月あまり。日中間には、いろいろな問題や課題はあるが、スポーツの世界は別問題。この国際的なビッグイベントを上手く運営してもらいたいし、成功を期待している。

 先日、「日本三大つるし飾りサミット」という雛人形にまつわる柳川、酒田、稲取の人たちが一堂に会して第1回のイベントが開催された伊豆稲取温泉を訪ねた。

 2月24日には、中国現代書家の第一人者である李凌先生が来日され、このひな祭りサミットのために、お祝いの文字「雛」を大書してくれたのである。

 昨秋、稲取温泉観光協会の渡邉法子事務局長が訪中した時に、知人の紹介を受けて現地でお会いし、来日を快く引き受けて、約束を守っての来日ということである。

 オリンピックに向けて厳格な体調管理中でありながら、稲取温泉の皆さんや日本の雛まつり愛好者のために、わざわざ調整をしてくれたらしい。

 彼は、まだ51歳という若さであるが、7歳の頃から有名な書道家黄氏に師事し、その書体は躍動感にみなぎった新鮮な芸術と、中国では極めて高い評価をされている。

 そして、北京オリンピックの開催に当たって、2008m²の紙に巨大な筆で「龍」という字を書くことが予定されている。

 今回は、「吊るし雛まつり」の鑑賞と取材に出かけたのであるが、おもわぬ出来事に遭遇するという、嬉しいハプニングであった。「外に出れば、何か良いことがある」という証を再確認した旅でもある。


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「やっぱり欲しい江戸城天守閣」

2008年5 月15日 (木)  管林義隆通信員 [東京都杉並区]

 過日、現役時代から続いている親睦会の仲間を連れて「江戸城」を案内した。東京駅をスタートし、完成間もない新丸ビルを見学し、道三堀跡、評定所・伝奏屋敷跡、和田倉門跡を抜けて大手門を潜った。尚蔵館、大手三の門跡と同心番所、百人番所、大手中の門跡と大番所、中雀門跡、本丸御殿跡、富士見櫓、松の廊下跡、富士見多聞、石室を経て天主台に到着である。

寂しげに天主を待ってる天主台

 テレビの時代劇の影響もあり、大阪城、名古屋城のように江戸城にも天守があると思っている人達がいると聞いている。しかし、残念ながら現在天主は存在しない。あるのは土台だけ。

 家康が入府して後、江戸城には5層の天主が3度も建造された。最初は、慶長11年(1606年)から翌年にかけて、棟高48m、白漆喰塗りで雪山のごとく輝く巨大な天主を建造、面積は信長の安土城、秀吉の大阪城の2倍以上だった。元和9年(1623年)二代秀忠と寛永15年(1638年)の三代家光により建て替えられた。寛永天主は棟高51m、壁は銅版黒塗りであった。明暦3年(1657年)の大火で消失すると、加賀前田家が現天主台を築いたが、家光の弟・保科正之の進言により天主再建は断念され、今日に至っている。

本丸御殿跡 左側に大奥跡、更に左に天主台

 このところ強く感じるのは、外人観光客の多さである。アジア系の人達だけでなく欧米系の人達もそれなりに増えている。しかし、本丸の一部である大奥など特長のあった建物も無く、天主も無い。あるのは、欧米の公園などとは比べ物にならない狭い芝生と石積みの土台だけ。

 東京駅の赤レンガ駅舎は開設当時の姿に戻すべく改築中であり、日本橋もうっとうしく上を覆っている高速道路が取り払われることが決まっている。政府は「観光立国」日本を目指して訪日外国人を増やすキャンペーンを継続中である。ならば、江戸城にもやっぱり「天主」が欲しい。皇居を参観する外人も雷門や仲見世でご満悦の外人もさぞ喜んでくれるのではなかろうか。


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待ったなし!「地球温暖化防止活動推進員」研修会

  中村義通信員 [埼玉県川口市]

 私自身が所属している「埼玉県地球温暖化防止活動推進員」の定例研修会が1月28日(月)に、さいたま市大宮ソニック市民ホールで開催された。10時から17時まで、一日コースの充実した研修プログラムに約100名が出席したが、殆どが60~70歳代の男性であり、女性の参加が少ないのが印象的であった。

 埼玉県の温暖化の現状・対策、低炭素社会への構築、ストップおんだん館(全国地球温暖化防止活動推進センター@東京都港区)からのプログラムなどの紹介があった。

 こうした研修の機会を通じて、近隣で環境に関する市民ボランティア活動をしている人達との交流もできたことは、とても有意義である。

 最後に、ワークショップがあり、「推進員活動を始めよう~地域から温暖化を防止するために~」というテーマで、住まいの地域ごとに12のグループに分かれて熱心な議論・提案・検討が行われた。

 それぞれに、地域ならではの具体的で身近な取り組みを大切にした小テーマについて発表され、温暖化防止へのさまざま視点が見られた。

 私たちのグループでは、キーワードとして「もったいない」「多少の不便さを共有しよう」「多世代同居のすすめ」「人工物は全てゴミになる」「行政と市民の協働・行政の意識改革」「メディア報道の本質を見極める力を」などと言ったことが提案・提言された。

 こうした推進員制度は全国の都道府県に設けられているので、多くの市民に積極的に関わり合って活動を展開して欲しいものである。

 これからは団塊世代の皆さんが地域社会へデビューして、これまで会社や組織での経験・知恵・工夫などを還元する意味でも、このような身近な環境問題に取り組んでもらいたいと切に願いたい。


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ボランティア・アドバイザ養成講座を受講して

  北邑奉昭通信員 [大阪府河内長野市 ]

 退職後、地域のボランティアサークルに参加して4年になるが、今までの実務経験を生かしたいと思い、ボランティア・アドバイザ養成講座を受講した。受講者は、20人ほどで、皆さん、日頃、ボランティアで活動されている方たちばかりでした。

 何年振りかで、講座というものを受講したので、記事にしてみました。この講座は、2日コースで、1日目は、「ボランティア活動の役割と相談内容について」というタイトルで、先ず、参加者の緊張をほぐすために、各自に、「丸を3つと、棒線1本を使って、絵を書いて下さい」とのこと。結果は、「だんごを3つ串刺しにしたもの」、「シーソー」、「丸3つを順次大きく囲み横線を引いたもの」などであった。各自がその絵を書いた紙の空欄に、氏名、所属サークル名などを書き足し、5、6人に、自己紹介をして回った。このお陰で、お互いにどういう人たちが参加しているかを知ることができた。

 一般に、ボランティア活動は、「課題を抱える人や団体」と「それを援助したい人や団体」が出会い、「共同して課題を解決していくことが基本」である。また、「表面上の課題を解決するだけでは、解決しない社会上の問題」があり、例えば、「車椅子で買い物に行きたい」という人に付き添うことはできても、肝心のスーパーに段差があったり、エレベーターがないと、結果的に、課題である「買い物が困難になる」という問題に直面することになる。

 アドバイザとしては、「ボランティアしたいという人の動機」だけでなく、「参加に至るプロセス」や「相談のアフターフォロー」を通して、「ボランティアの素晴らしさ・楽しさを伝えていくという視点が重要であること」を学んだ。

 また、相談をうける場合、「閉じた質問(はい、いいえなどで答えられる質問)」から入って、少しずつ「開いた質問(相談者自身の言葉で説明していただける質問)」を織り交ぜていくことが大切であることも学んだ。また、当たり前であるが、「相談者の話を聞く」ということが最も重要であり、表面上の要求だけが、本人の求めている内容とは限らないので、じっくり聞いて、気付きをお手伝いするという姿勢が大切であると思った。

 2日目は、「グループ運営支援とネットワークづくり」というタイトルであった。先ず、ボランティアは、1980年代は、女性の方が多かったが、1994年に、男性ボランティアの草分けとも言える「ふくてっく」という日曜大工のボランティアが誕生していたということを知った。

 講習の本題に入る前に演習があり、まず、「参加者の血液型で分かれて下さい」という問いかけに対して、ひとりの方の「A、B、C、ABと4つのテーブルに分かれて集まりましょう」という一声で移動が始まり、聞こえていた人は、直ぐに、その場所へ移動したが、そうでない人は、順番に確認して移動したり、「A型はどこですか」と確認したり、「O型はここですよ」などと声をかける人もいた。

 次に、「上着の服装について、皆さんで相談して、集まって見て下さい」という問いかけがあり、最初は、「上着の色で分かれましょう」と、茶系統の上着の人が移動しましたが、その他の色の方たちが色がバラバラだったので、結局、上着の種類で、3つの班に分かれた。

 この演習を通して、目的が血液型とはっきりしている場合の方がやり易いということと、最終結果に至るには、色々と過程があるということを学んだ。

 グループには、「目的が大切であること」、「目的を達成すれば、解散もありえること」とか、「グループには、4つのタイプがある(自然発生集団と人為的集団、開放的会員制と閉鎖的会員制、同目的集団と異目的集団、活動目的と成り立ちの4種)」とか、「役割には、3つの種類がある(肯定的な役割、否定的な役割、コアのメンバの団結力(色んな人がいて、全体的な包容力で包み込んでしまう組織力))」とか、「人間関係の発展には、孤立者→二人組み→三人組みへと、順次、発展の可能性がある方向へ進む」とか、「グループ活動のポイントは、コミュニケーションが大切」であり、「葛藤の解決方法として、退去(断念など)、制圧(力のある者が動かす)、多数決、少数派同意(多数決に同意)、統合(全員が満足できるように討議し、補整する)」等があるということを学んだ。

 最後の葛藤における統合への演習として、「財産」、「自由」、「愛情」、「正義」、「家庭」、「仕事」、「健康」、「友人」という8つのキーワードの優先順位を各自が記入し、班毎に、グループとしての順位付けを行った。先ず、各自が記入した全員のものを並べてみて、相違点について、どのように考えて順序づけをしたかなど色々と討議した上、グループとしての順序づけしたものを発表した。「健康」が、全グループで1位であったが、歳をとると、やはり、健康が第一になるようでした。後は、バラバラで、男性の多いグループと女性の多いグループでは、異なった結論が導かれていた。

 最後に、ボランティアは、「コミュニケーションをとることが目的で、技術(例えば、車椅子を押す技術)は、手段」であるが、プロは、「課題を解決することが目的で、会話することは、手段である」という話があったが、その通りだと思った。

 結局、「問題点について、色々と考えていく過程が大切であること」、「ボランティアの目的は、コミュニケーションであること」のふたつが、2日間を通して受講した私にとっての収穫であった。


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「日本一の門松飾り」

2008年1 月30日 (水)  土田正剛通信員 [名古屋市]

 わが町の近くに「愛知県護国神社」がある。今年も、この神社の日本一の門松飾りが話題を呼んだ。

 高さ13m(一本の竹の長さ)は日本一。竹はモウソウチク(孟宗竹)で愛知県東加茂郡足助町(現在:豊田市)の遺族会有志で奉納。今年で4年目である。以前は7mの高さの竹だったが、鳥居の高さ(12m)を超える竹で話題づくり。初詣での人々の繁栄と安全を今年も願っているようだ。

 尚、当護国神社には、戊辰戦争(1868~1869)後第二次世界大戦迄の英霊9万3千余柱が祀られている。


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「市民公益活動支援センターがオープン」

2007年12 月26日 (水)  北邑奉昭通信員 [大阪府河内長野市 ]

 河内長野市でも、やっと、市民活動の拠点として、市民公益活動支援センターがオープンされるというので、取材してきました。11月29日にオープンされたセンターは、市民公募の愛称である「るーぷらざ」(Loop(輪)とPlaza(広場)の造語)として市民に親しまれるようになっていくであろう。

 オープン式典当日は、曇り勝ちの肌寒い日であったが、橋上市長の式辞、市議会議長、府会議員の式辞のあと、愛称となった「るーぷらざ」提案者の表彰があり、若いお母さんがお子さんを伴って表彰されていました。

 市長からは、「行政と市民が協働できる総合的なセンターとしての役割を担って欲しい」ということと、「市民による市民のための活動拠点として活用して頂きたい」というご挨拶がありました。

 市議会議長からは、「市民の期待も高度化し、公平性が困難になってきている折り、協働による相互協力の仕組みを作りあげ、物の豊かさから心の豊かさへとつながるようにしていって欲しい」というご挨拶がありました。

 府会議員からは、「今まで、市民の要望や陳情は、行政主導で進めてきたが、財政的にも難しくなってきている折り、市民と行政がいったいとなったまちづくりをしていく必要がある」というご挨拶がありました。

 その後、センターを管理していく市民団体の理事長からセンター機能の紹介があった後、アトラクションへと移っていきました。アトラクションでは、「いわい太鼓」がにぎやかに打ち鳴らされ、静かな「太極拳」、市長、議員の方も含め、参加者全員で参加した「ふれあい歌体操」へと進んでいきました。

 午後は、大相談会ということで、11の団体が参加され、訪問された方たちに熱心にご説明されていました。

 センターの概要は、相談カウンターと受付があり、火曜日を除く、毎日、9:00-21:00まで、利用できるようになっており、スタッフが、昼間は2名、夜間1名が常駐し、ご相談に応じる体制になっていました。

 また、交流スペース、情報スペース、ミーティングスペース、ワークスペースが設けられており、これらの利用は、基本的に無料ですが事前の予約はできないとのこと。ただ、緊急の場合やちょっとした打ち合わせなどで、空いていればいつでも利用できます。会議などで、事前予約が必要な場合は、隣接する市民交流センターの会議室を利用できるようになっています。

 コピー機もあり、有料ですが、市民団体が広報誌などを100枚以上印刷したい場合は、格安で利用できると思いました。また、ワークスペースには、紙折機、裁断機、パンチ、ラミネータなどが無料で利用できるようになっており、大変便利だと思いました。

 なお、2Fには、僅かですが、有料の貸しスペースや貸しロッカーなども配備されており、市民団体の立ち上げや専用の場所で困っている場合などに有効に使えそうでした。

 ボランティア活動をしているひとりとして、市民と行政及び企業、地域の自治会などが協働して色々な活動をしていくための支援センターとして育っていっていくことを期待すると共に、時間の許す限り、自らも参加していきたいと思いました。


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「年末、町の話題から」

  土田正剛通信員 [名古屋市]

 住まいの近くに名古屋でも名高い円頓寺商店街があるが、その商店街にランチタイムで利用する寿司店がある。この店頭に、このほど一風変わったのれんが注目を集めている。

 年末を迎え、所轄の名古屋西警察署が協賛して「飲んだらのれん」(写真)を作成。

 主に飲食店を中心に配布、飲酒運転撲滅運動の一環として展開。商店街の通り客、店利用客の目に留まり刺激効果。

 尚、こののれんは書道家の女性が絞り生地に刺繍をしたもので全て手作り。


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「スクリーン走る昭和の時と空」

  近藤敬寿通信員 [東京都昭島市]

 「夕空晴れて秋風吹き...想えば遠し故郷の空。」スコットランド民謡“Coming Thro the Rye”(誰かさんと誰かさんが麦畑)――ロバート・バーンズ(「蛍の光」の原作者でもある)の詩を「故郷の空」に訳した大和田建樹は、鉄道唱歌「汽笛一声新橋を、はや我が汽車は離れたり」の作者。昭島の名は「昭和」に由来するが、我が青梅線の終着駅は青梅。ホーム待合室に「レトロステーション青梅駅」の標語とともに、映画「ロミオとジュリエット」(1968年、昭和43年)(シェークスピア原作)と「駅馬車」(1939年、昭和14年)の看板が向き合う。着席すると、ジョン・フォード監督描く駅馬車に同乗の気分。同監督の「荒野の決闘」(“My Darling Clementine”)のテーマ曲「いとしのクレメンタイン」(替え歌は「雪山賛歌」)は、歌詞の由来がオフィーリア(シェークスピア「ハムレット」のヒロイン)。鉄路が「ロミオとジュリエット」と「駅馬車」を時空を越えて結ぶ。「オウメ(Ome)」に「ロミオ(Romeo)」、駅に「駅馬車」、音韻のこだまが響き合う粋な縁。

 改札口への地下通路では、「カサブランカ」(1942年、昭和17年)の「As Time Goes By」(時の流れるまま)など映画音楽のメドレーの中、名作看板が両壁に向かい合う。地元青梅の看板絵師、久保板観氏の作品。「バンカン」氏の名は「カンバン」の回文と言われる。「昭和の街 青梅へ」の挨拶文と並ぶ大看板の列が車両の連結のようだ。「鉄道員」(伊)1956年、昭和31年(ピエトロ・ジェルミ監督)。「終着駅」(伊)1958年、昭和33年(ビットリオ・デ・シーカ監督)――原題“Terminal Station”が「終着駅」の邦訳を得て以来、鉄道の終点が終着駅と呼ばれるようになった由 (ウィキペディア)。

 「鉄道員(ぽっぽや)」(1999年、平成11年、東映)の雪の詩情が蘇る。昭和11年、主人公、佐藤乙松(高倉健)が国鉄(日本国有鉄道札幌鉄道管理局)の辞令を受ける。肩そびやかし蒸気の遠吠えを響かせながら雪の中を邁進するD51の機関手。時が流れ、気動車(キハ)(昭和32年製作) 一輛の運転手から、更に田舎駅、幌舞の駅長へ。全編に流れるテネシーワルツ。高倉夫人、故江利チエミの大ヒット。このメロディーだけでも胸が熱くなる。合理化で幌舞線が廃線。これを伝えるのは機関手仲間の親友の息子、今や国鉄のオエライサンになったヒデボー(吉岡秀隆)。何が残るか。「思い出が残る」という言葉の重さ。妻や娘との幻想的な再会。成長した娘、雪子。気動車内の忘れ物――人形――が導く出合い。合理化の中で合理化されない人間が生きる。

 終着駅は折り返し始発駅。未来の答えは過去にある。そんな時空の広がりに誘う青梅駅の映画看板たち。

 さて、今年もまた数々のスクリーンが故郷岡山と結ばれていた。懐かしの列車、電車も織り込まれていた。「ALWAYS 続・三丁目の夕日」(東宝)。前作同様、ラジオの声で始まる。1959年、昭和34年、臨時ニュースが、ゴジラの東京上陸を伝える。東京タワーが襲われる。日経マスターズ2006年1月号の表紙を見るようだ。昭和29年、1954年に映画デビューしたゴジラ。当時、小学生だった身には、あれが地球環境問題の先触れとは知るよしもなかった。夕日町で5年生になった少年たちが給食を食べるシーンの校舎は、1世紀前、明治40年、1907年建造の旧遷喬尋常小学校――岡山の北部、真庭市――で撮影。「モダンな洋風建築」は、かつて通学した岡山市内の小学校の校舎とそっくりの威風堂々たる構え。ヒロイン「ヒロミ」(小雪)は、一旦は夢をあきらめて、特急「こだま」で西へ向かうが、竜之介(吉岡秀隆)の作品「踊り子」を読んで東京駅に引き返す。

 呼び合うコダマが共鳴するクライマックス。この東京-大阪/神戸の「こだま」は、昭和33年運行開始。エンディングテーマ「花の名」(BUMP OF CHICKEN歌)が、「あなただけに会いたい人がいる」と夢の続きを見るような優しい優情の世界へ誘う。

 東京駅といえば、「点と線」(テレビ朝日)。13番線と15番線を結ぶトリックの寝台特急「あさかぜ」博多行きが陰の主役。昭和31年、1956年運行、2005年廃止。日本初のブルートレーン。19:00東京発、04:15岡山着、寝静まっている郷里へ降り立つのも新鮮だった。芭蕉の句を借りると「世の人の見つけぬ花や軒の栗」。この「点と線」に登場する赤坂方面の都電走行シーンは、岡山電気軌道の路面電車を撮影したもの。画面を見ていると、通った小学校近くで車輪をきしませながらカーブを切る電車の音が聞こえるようだった。

 「おもひでぽろぽろ」(1991年、スダジオジブリ、高畑勲監督)も、早朝着のブルートレーンが活躍。二つの時代を乗せて運ぶ。監督には高校の同窓会でサインをもらったことがある。ヒロイン、タエ子が紅花を摘みに上野からブルートレーンで山形へ行く。朝露を含んでトゲの柔らかい間に花を摘むために、早朝の駅に到着する。迎えたトシオが一夜漬けで覚えた「行く末は誰が肌つけん紅の花」(芭蕉)を詠む。紅花摘みのシーンでは「まゆはきを俤にして紅の花」(芭蕉)も思い出される。エンディングテーマは、原曲“The Rose”を高畑監督が訳詞、「優しさを」で始まる都はるみの歌「愛は花、君はそのタネ」。結びの句は、「冬、雪に埋もれていても、タネは春、お日様の愛で花開く。」27才のタエ子と伴走する小学5年生時代のタエ子の二人三脚。田舎の畑に惹かれるタエ子が、「イナカ行カナイ?」という回文メッセージを発しているようだ。

 「釣りバカ日誌18」は、全編岡山ロケ。県南の瀬戸内の景観と岡山弁を堪能させてもらった。小学5年生だったか、鷲羽山(瀬戸内海国立公園)の遠足で山土の斜面をサンド(砂)スキーと称して運動靴で滑って遊んだ手足の感触が健在だ。「美しい瀬戸内海のリゾート開発をめぐる大騒動。ハマちゃんスーさん瀬戸の約束。」かつて、急行「瀬戸」号で、東京―岡山を往復した時代が想われる。


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「久々にサッカー大会を観戦」

2007年12 月 4日 (火)  半澤徹通信員[宮城県角田市]

 10月27日(土)、福島県楢葉町のJヴィレッジで、前に私が勤めていた会社のサッカー大会を観戦した。

 当日は、雨のうえに台風による強風で最悪の天候だったが、このグラウンドは日本代表や選抜チームが利用するだけあって、グランド全面が芝生で選手たちには汚れが少ないという点では幸いだったと思う。

 この大会は昭和44年に第1回が東京で開催され、今年で38回目を迎える。以前は各地区からの代表による一般の部の試合だけが行われていたが、今は一般の部とシニアの部に分かれて行われているという。

 今年は一般の部が13チーム、シニアの部11チームが参加し熱戦が展開された。私は友達と一緒に、地元の東北シニアチームを観戦した。

 シニアチームは年齢が40歳以上で試合時間が20分ハーフであるが、年齢を忘れて以前の勇姿?そのままに熱戦が展開されたが、中には歳には勝てない場面もみられ和気藹々の試合が展開された。

 社会の変化に伴い、このサッカー大会も年々変貌していくと思うが、これからも継続して大会が開催されることを期待したい。


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「高野街道まつり」

2007年11 月 1日 (木)  北邑奉昭通信員 [大阪府河内長野市 ]

 京都から高野山へ行く街道の宿場町であった河内長野、三日市周辺には、高野街道が通っている。10月21日(日)に、高野街道まつりが開催されたので、取材を兼ねて参加してきた。

 このまつりは、高野街道を家族でスタンプラリーを楽しみながら、自分達の住む町の良さを知ってもらおうというものであった。時間的には、30分程度の道のりを、高野街道に沿って、元造り酒屋であった八木邸、増福寺、烏帽子形神社、大日寺、天野酒の酒蔵、長野神社などを見学し、昔ながらの町並みが残っている所を歩くようになっていた。

 河内長野に引っ越してきて10年になるが、一度も行ったことのないところが、まだまだたくさんあることに驚きを感じつつ、秋晴れの清清しい一日を過ごすことができた。

 天野酒の酒蔵では、晩酌のお酒を1本、お土産に購入し、ゴール地点の長野神社では、メインステージで、地元、三日市出身の夏木美衣の演歌や、かすみ荘という作業所の方たちが演じる劇を観て半日を過ごした。

 ここで、少し歴史的な解説を加えておきたいと思います。最初の八木邸の天井は、竹で造られていた大変珍しいものであった。夏場、大変、、涼しく過ごせるということであった。

 次の増福寺は、畠山義深という人が河内国守護職を辞めた後、この地に隠居所を設けた所で、彼の死後、村人達が一寺を建立すると同時に、彼の法名を寺号として、増福寺と名付けたとのこと。本尊は地蔵菩薩半跏像で、左手には、上田・観音寺の本尊、十一面観音菩薩立像が安置されていた。

 次の烏帽子形神社は、烏帽子形城跡の東山麓に位置し、発見された棟札(重要文化財指定)には、文明12年(1480)に、石川八郎左衛門尉が建立した。本殿は入母屋造り檜皮葺きで、正面三方に縁をめぐらして正面中央に擬宝珠をつけた5段の階段がつけられていた。この神社の境内には、徳寿院、高福寺という天台宗の宮寺があり、楠木正成の信仰が篤かったようだ。

 次の大日寺の石地蔵尊は、境内西側に集められた石造物の中に地上高94㎝の地蔵尊らしき石仏があり、昔はこの石仏を「ヤソ地蔵」と呼んだといわれている。形は、よくある舟形ではなく、上部が丸みを帯びており、尊像もお顔が中央にあり、全体に下に片寄った感があった。

 次の天野酒の酒蔵の市場(西條合資会社旧店舗)は、長野神社付近から旧街道に沿って西條家や吉年家の住宅など、比較的昔の町並がよく残っている所であった。西條家の創業は享保年間で、当初は菜種油を主とした油屋であったが、6代目より酒造業を始め、現在は、古来金剛寺で醸造された「天野酒」を中心に製造している。西條家には、国登録文化財のサカミセと呼ばれる旧店舗と土蔵があった。

 最後に、ゴール地点の長野神社は、正徳年間(1711-16)頃までは「木屋堂の宮」あるいは「牛頭天王宮」と呼ばれていたが、慶応4年(1868)に長野神社と改称された。石川流域のこの辺りは、木材の集散地であったため木屋堂の名で呼ばれていたとのこと。この神社の本殿は、一間社流造りで、正面に千鳥破風と軒唐破風がつき、屋根は檜皮葺で、昭和25年に重要文化財に指定されたとのことであった。

 最近は、車での移動が中心であるが、たまには、近くの駅を起点にして、徒歩で歩くこともいいものだと思った日であった。


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